喪主 伊東 弘

故 伊東 幸子

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ご挨拶

母幸子儀 昨年より入院加療中でございましたが 去る12月15日 93歳の生涯を閉じました ここに故人が生前中賜りましたご厚誼に対し 心よりお礼申し上げます なお 葬儀につきましては 故人の遺志に従い近親者のみにて相済ませました ご連絡を差し上げませんでしたご無礼を 何とぞお許し下さい ここに 故人が生きてきた証の一端を紹介させていただくことになりました 略儀ながら 謹んでご通知申し上げます 令和4年12月24日 歳晩の候 喪主 伊東 弘 外  親戚一同

故 伊東 幸子

(1929年02月12日—2022年12月15日)

享年 93 歳

故人の横顔

地方の家の次男に嫁いだため、理不尽な立場を強いられたようですが、 その反動もあったのでしょうか。後年にはその桎梏から自らを救出するように幾つかの美的なロマネスクに取り付かれたようです。 観衆を前に舞台を披露するなどの僥倖に恵まれた日本舞踊もその一つ。 当時の母のメモ書きには次の一文が読めます。 《年齢がいっても若い姿を表現するのが通常情念の舞台ですが、 私の最後の題目に選んだのは、(老女が舞う)宮城県民謡の「お立ち酒」。 プログラム最後の幕が上がって出てきた姿に、会場からはなんとも言えない どよめきの声が、音になって耳に入ったのを覚えています。 それまでは観にきたことは一度もなかった夫が来てくれて、 受け付け係が驚いて招待席へと言うのを断って 一般席に居たことは会が終わってから知りました。 「観ていて、涙が流れて止まらなかった。 恥ずかしいので、幕が降りるのと一緒に会場を出た。いい踊りだった。」 と言ってくれたのは、今でも心に残っています。》 このように、幸せな一瞬も母の人生の所どころにあったのかも知れません。

故 伊東 幸子の生立ち

故人史

1929

九州は宮崎県の城下町に誕生。

街を流れる川の側の材木商の娘として。が、1945年の空襲でそれまでのすべてを失う。

1945

女学校卒業記念写真。母と娘16歳

16歳の娘は卒業後まもなく母校の臨時教員に採用されるが、戦禍で全てを失った二人の表情が暗い。

1946

祝!職場結婚写真

戦後、女学校に隣接していたという男子校の臨時教員に見染められる。

1949

広島で長男と記念写真

平和になったので大学で学び直したいという夫に付いて広島に住んでいた。

1953

夫の赴任先の熊本で次男誕生

広島の大学卒業した夫は熊本の高校教員に。ここで次男にも恵まれる。

1965

主婦業にも慣れて雑誌投稿を楽しむ

この頃になると、生活も安定して顔も横に拡がっている。他にも衣服教室を開いたり、安くて丁寧と好評。

1973

主婦業を脱出し、 舞踊の世界に

1970年代になると、前々から興味を持っていたらしい日本舞踊に本格的に取り組むようになる

1992

踊りの次は、刺し子に没頭

50歳を超え、今度は伝統的な衣装つくりの一つ=刺し子の制作を始める。作品は小冊子にして眺めていた。

2008

夫も向こうに逝って一人暮し始まる

伴侶を亡くし一時は消沈していたが、これからは私自身にために生きて行くことにすると周囲に宣言。

2021

双児のひ孫誕生を家系図で報告

亡くなる三年前から介護施設に入居し、その後病院での入院生活に。ひ孫の誕生を伝えるのも一苦労でした。

2022

12月冬木立の頃永眠する

写真は生前一番のお気に入りの写真を添えて、母の親戚や知人に出したハガキ。

故人史

  • 1929

    九州は宮崎県の城下町に誕生。

    街を流れる川の側の材木商の娘として。が、1945年の空襲でそれまでのすべてを失う。

  • 1945

    女学校卒業記念写真。母と娘16歳

    16歳の娘は卒業後まもなく母校の臨時教員に採用されるが、戦禍で全てを失った二人の表情が暗い。

  • 1946

    祝!職場結婚写真

    戦後、女学校に隣接していたという男子校の臨時教員に見染められる。

  • 1949

    広島で長男と記念写真

    平和になったので大学で学び直したいという夫に付いて広島に住んでいた。

  • 1953

    夫の赴任先の熊本で次男誕生

    広島の大学卒業した夫は熊本の高校教員に。ここで次男にも恵まれる。

  • 1965

    主婦業にも慣れて雑誌投稿を楽しむ

    この頃になると、生活も安定して顔も横に拡がっている。他にも衣服教室を開いたり、安くて丁寧と好評。

  • 1973

    主婦業を脱出し、 舞踊の世界に

    1970年代になると、前々から興味を持っていたらしい日本舞踊に本格的に取り組むようになる

  • 1992

    踊りの次は、刺し子に没頭

    50歳を超え、今度は伝統的な衣装つくりの一つ=刺し子の制作を始める。作品は小冊子にして眺めていた。

  • 2008

    夫も向こうに逝って一人暮し始まる

    伴侶を亡くし一時は消沈していたが、これからは私自身にために生きて行くことにすると周囲に宣言。

  • 2021

    双児のひ孫誕生を家系図で報告

    亡くなる三年前から介護施設に入居し、その後病院での入院生活に。ひ孫の誕生を伝えるのも一苦労でした。

  • 2022

    12月冬木立の頃永眠する

    写真は生前一番のお気に入りの写真を添えて、母の親戚や知人に出したハガキ。

日本舞踊の20年

弟子入りをして、間もない頃。 動きが固そうに見える。
名取になった頃の短冊に載せるための 記念写真に納まる。
現役最後の舞台・その1。 地方都市の市民ホールで開催した。
現役最後の舞台・その2。
現役最後の舞台・その3。
夫が逝った時に作った記念の小冊子にも 踊りの1ページを添えた。

刺し子と共に

作務衣#433 左:檜垣(檜垣)と右:井桁格子の コンビネーション
作務衣#430 花文や業平割菱、千鳥つなぎなどの刺し子 独特の模様が見える
作務衣#412 伝統の模様だが、 名前を忘れた、恥ずかしいと言っていた。
務衣#406 菱青海波 (ひしせいかいば)
手提げ袋などの小物も 多く残している。
今も、 子や孫たちが使っているかも知れない。
例によって小冊子にまとめることも 忘れなかった。

太平洋は日向灘の波

育ちは、太平洋を望む地方都市。 広々とした海はいつも身近にあった。

追悼の辞

このたびは伊東幸子様のご逝去に際し、 謹んでお悔やみを申し上げます。 突然の訃報に言葉もありません。 遺されたご遺族の悲しみを思うと、心が締め付けられる思いです。 何か力になれることがあったら、いつでも連絡してくださいね。 弘さんが、このメールで少しでも元気になってくれたら嬉しいです。どうかあまりムリをせず、お身体を労ってください。 幸子さんはじめ、友達みんなでよく歩いた里山の風景を送ります。 ご返信には、お気遣いなくお願いします。 茶飲友達の井上奈緒
中野 誠です このたびはご愁傷様です ご母堂様のご逝去に際し、心からお悔やみを申し上げます。 今は本当に大変な時期と思います。 こちらはチーム全員でカバーしていくので、 留守中のことは気にせず、 どうか落ち着くまでご家族との時間を過ごしてください。 何か手伝えることがあれば遠慮なく連絡ください。 なお、返信は不要です。 中野 誠
このたびは心からお悔やみを申し上げます。 本来であれば直接ご葬儀に伺うべきでしたが、 都合により略儀となり申し訳ありません。 幸子さんには生前とてもお世話になりました。 落ち着いたころに、改めてご焼香に伺います。 写真は幸子さんと食事を共にした日本料理店の庭の景色。 きっと一緒に見て下さると思い文章に添えさせていただきました。 しばらくはご多忙かと思いますが、お身体に気をつけてください。 伊東 静子

追悼の辞、メッセージを ここで受付けております。

Web告別記にご訪問の皆様、 故人の生前にはお世話になった皆様からの 追悼の辞、メッセージをここで受付けております。 故人に関わる想い出や懐かしいむかし話、最近の出来事など お寄せいただければ、故人もさぞかし満足のことと思われます。 もし、関連する写真などの画像があれば、 メッセージに添付できる投稿投稿フォームも用意しています。 以上、よろしくお願いいたします。

なお 誠に勝手ながら 故人の遺志により 御香典 御供物等につきましては 固くご辞退申し上げます 生前に賜りましたご厚誼に 深く御礼を申し上げますと共に 失礼ながら 当欄にてお知らせ申し上げます。 ----------------------------------------------------- (解説) このサンプルでは デザインひな型から香典辞退を選択しています。 《香典オンライン受付》ご利用の場合の詳細は ヘッドメニュー の 使い方ガイドから 「13 |香典オンライン受付」欄をご参照ください。

感謝と御礼

故・伊東 幸子 Web告別記のサイトに ご訪問・ご高覧いただき、ありがとうございます。 その一端を、改めて皆様に触れていただき、 さぞ喜んでいることと思われます。 また本来であれば、参上して御礼を申し上げるべきですが、 略儀ながら書中をもちましてご挨拶に代えさせていただきます。 2023年12月24日 喪主 伊東 弘