神奈備のこと
以下の文体は、常体(だ・ある調)で。
今も、日本の国土の約7割を占めるという林や森。とりわけ、周囲には資本主義経済の一木一草*も見当たらないような、深い森の中にある宿の窓から拡がる、まるでヒトの痕跡を消してしまったような湿度も高い鬱蒼とした景色を眺めていると、ついつい遥かな想像力が表面化することがある。この汚れのない自然の環境のなかで、おそらくヒトは夜に備えて、最初に火を起こすことから始めて、次に「さあ、これからどうやって生きていけば良いのか」と悩み、そして自らを奮い起こしたのだろうか。
*「資本主義経済の一木一草」とは、スギやヒノキなどの人工林のこと。山の自然を商品を生み出す資本主義的生産手段の一つであるとする考えから生まれたもので「人工植生」ともいう。これに相対する概念が「自然植生」。「自然植生」は、もともとその土地の風土や気候、地質などに適合して自然に繁茂していたが、ヒトの生活領域の拡大や人工林の進出と共に、今ではその多くが破壊し尽くされ、広域には白神山地や南九州の山系、屋久島などごく一部の森にしか見ることができない。ただし、本来であれば、つまりヒトの破壊がなければ、今でも繁茂しているだろうという《潜在自然植生》の研究はかなりの精度で進んでおり、これらの潜在自然植生を復活しようとする活動も細々とながらではあるが、各地で展開されている。この、もっぱら科学的な知見に基づく植生工学法は、研究創始者の名前をとって「宮脇メソッド」とも呼ばれていたが、近年は日本よりもむしろ「miyawaki method」として世界中で、自然環境を回復するカギの一つとして関心を持たれるようにもなり、実践にも移されているワールドワイドな言葉でもある。
参考:
http://renafo.com/
https://courrier.jp/news/archives/343341/
*「人工植生」について少し付け加えると、例えば、伊勢神宮の広大な森は神の領域としての自然の植生を自然のままに放置する(自然を「保存する」とも言う)自然植生の森と、20年に一度の式年遷宮のために人工的に大切に管理しながら育てる(ヒトの手で「保全する」とも言う)ヒノキを主樹とする人工林があるが、後者の「人工植生」は商品として売るために育てる訳ではなく、自らの目的のために使用するため、決して資本主義的ではない。前近代的な様式であり、残念ながら今の時代にはほとんど残っていない。
*「潜在自然植生」についても少し付け加えると、例えば、東京のビル群に囲まれて、まるで大海の中の立派な孤島のようにその存在感を主張して止まない明治神宮の森は、その当初は全国から寄進された多様な樹種で構成される幼少の森だった。その内訳はマツやヒノキ、スギなどの針葉樹が半分以上。ケヤキやコナラなどの落葉広葉樹が3割ほどで、東京の潜在自然植生である常緑広葉樹はわずか1〜2割に過ぎなかったと言う。それが創建からおよそ百年後の今日では、神の森として人の手が加わることを一切許さなかったため、つまり自然を自然のままに保存することになったため、かつてはその大半を占めていた(人の手とコストをかけて常態的に管理しないとダメな)針葉樹や落葉広葉樹は次第に朽ちてしまい、元来この東京で繁茂するほずのカシやシイノキ、タブノキなどを高木とする潜在自然植生としての常緑広葉樹が7〜8割ほどの多くを占めるようになっている。今後さらに人の手を加えずにこのままに時間が経過すると、残存する針葉樹や落葉広葉樹は一掃されてしまい、自然植生としての常緑広葉樹の立派な森が完成すると言う。
もう少し付け加えることを許してもらえると、注目すべきは樹木の成長だけではない。徐々に降り積もる落ち葉の下では微生物、バクテリアまでが地下の豊穣を実現しており、これを起点に循環する豊かな生態系がこの森に生まれようとしている。数十年毎に実施される神宮の森の生態系調査は、植生から土壌の微生物、小動物に至るまで生物界全体を総合的に調べるものだが、直近の報告では、営巣するタカの家族が確認されたそうだ。生態系の頂点に位置するといわれる猛禽類の登場によって、大都会の真ん中にあり自然からは孤立しているような神宮の森にも自然の循環が再生されようとしているのがわかる。私たちが驚きをもって、この森を《奇跡の森》と呼ぶようになったのも十分頷ける訳である。(参照:nhk bs番組「代々木の杜(もり)の物語~明治神宮」)

夜になると、心や意識を持たないカメラのレンズは、窓の外を暗黒としか認識してくれない。
やがて新月の夜には、満天に輝く天の川の神秘には圧倒されながらも、同じ窓の外は、部屋の灯りに仄かに消えゆく深緑のグラデーションと、その先は常緑の葉々の漆黒だけになる。すぐ横で、この同じ漆黒の風景を見ていた私の連れ合いが「まるで、カ・ン・ナ・ビ ** のよう」と突然つぶやいた。
** カンナビ(神奈備):古代日本において神霊が宿ると信じられていた場所。特に山や森などを指す。または、神道において神霊が宿る御霊代(みたましろ)・依代(よりしろ)を擁した領域のこと。もちろん私もその時、窓際で聞くまではその言葉を知るはずもなかった。
なるほど、この時の私は、昼間の想像力はすでに何処かへと消えてしまい、思考停止したままの、謂わば、固まってしまった状態だったが、隣人は「古代の人には、神や霊魂が行き交う森の暗闇は畏れ多く、立ち入りが禁区だったのでしょうね」と、昼間には一足先に私がすでに思ったような、歴史をずいぶん遡ってしまったようなことを言う。
そう言われてみると、21世紀の私は《宇宙は時空間を占める物理的実在でできている。精神現象(心や意識や記憶や思考や感情)は、物理的身体の機能》に過ぎない(中村圭志著『死とは何か』中公新書)ことを信じてはいるが、夜行性の生き物が得体の知れない怨霊などを乗せて行き交っているに違いない夜の森の中には一歩も踏み込むことは、恐ろしくでとてもできそうにない。漆黒の森は、今になってもヒトの恐怖を捕まえて離そうとはしない、昔と変わることなく、今も世界の所々は実に不思議だ。

すでに平安時代あたりから、これを描く側も観る側も、随分と余裕が反映されていたが、この時代には更に親しみが倍加する。
余談だが、上図のような画像を見ると想起させる「魑魅魍魎が跳梁跋扈する」という二重になった四文字熟語や他に思いつくだけでも「乾坤一擲」とか、aからzまで26文字しかないアルファベット文明に比べると、中国を起源とする東洋のそれは何と想像力を喚起する奥深いものか、「demons and monsters」と書くことは簡単にできても、とても「魑魅魍魎」などとは、たとえ読めても書くことなど出来ない。
かつての自然を怖れ崇めようとする精神現象とは少しポジション的にズレて現存する世界宗教が、その初めから(その対象が世の中だったり、民衆だったり、そして自分自身だったりの違いはあるが)「救済」を目的の一つにしていることを考えると、それらとはまた一味違って私たち現代人にも備わっているらしい「神奈備」の感覚は、ヒトのdnaレベルに刷り込まれた、より根源的ものかも知れない。
人は死んでも、snsのなかでは今日も笑っている

この「神奈備体験」をした後で、無事に日常生活に戻ると、すでに亡くなって久しいかつての友達の「今日は**さんの誕生日です」メールが、snsから今年も届いた。日頃は思い出すことも忘れてしまっていた、その人のページに久しぶりに入ってみると、まるで今日も相変わらず生きているように、数々の元気な様子に再会することができ、しばしの時間その余韻に浸ってしまうのである。
生前、生に溢れた多くの画像やコメントで周りの人々を楽しませてもくれたsnsの記録がそのまま消えてしまうのも実にもったいなく、しのびない場合も多いはずである。そこでsnsには友人や家族で故人の想い出をシェアできる「追悼プロフィール」という機能もあり、これに移行するとアカウント名の横に「追悼」と表示される。
故人が独り者だったり、ご遺族の様々な都合もあったりで「追悼プロフィール」への移行が簡単ではない場合もあるが、市井の人にとって、亡くなった後でも新しい故人の記録をアップしたり、こうやって思い付いたら気軽に、何度でも、故人とアクセスできるような、安心して使えるsns環境***が整ってくると、余談だが、私の《Web告別記|記憶葬》もその地位を追われてしまいそうだ。
***sns環境:
もちろん、今のsnsがデマと暴言を垂れ流す社会の凶器ともなって、少なからぬユーザーを不幸に陥れているという致命的な欠陥を抱えており、これの根底的な改善が不可欠であることは大前提となる。例えば、最近は「倫理資本主義」の提唱者としても知られるマルクス・ガブリエル****は「私たちはsnsを楽しんでいると思っているが、実際には窒息している」と相変わらず彼の天敵であるsnsに対しては舌鋒鋭い。例えば、facebookが「いいねボタン」を取り入れたことによって「神経に対する搾取を行った」。同社はそうなることを予見していたにもかかわらずに導入したことを批判している。xについても、同様に道徳的でないために持続可能ではないと主張した。
このドイツの哲学者は、哲学者の宿命でもあり欠点でもある上記のような難解な表現をいつも使いたがるが、かつて以下のような、凡人にもわかるような面白いことも言っている興味深い人でもある。「(東京の電車の中で全員が静かにスマホに熱中する東洋の老若男女を指して)瞑想的な静けさが絶叫している」と巧みな表現をしてくれ「社会の網の目に絡みとられた人々は、そのクレージーな混沌と抑圧から逃れるために、いつもスマホに閉じこもるしかないのだ」と解説していた。(nhkbs「欲望の時代の哲学 マルクス・ガブリエル日本を行く」より。少し古いが2018年7月の放映です)
なるほど、そうだったのか。これまで、上品で物静かな佇まいの、おまけに瞑想的でもある私たち日本人はおしなべてクールで優秀な民族の末裔と思い信じ込んでいたが、実は自らの沈黙を絶叫するしかない窒息直前の状態にあるだけ!ということも、彼の一言でわかってくる。最近、流行りの口調を借りると「真実に目覚めた」という訳だ。これ(2018年)以降、真実に目覚めた私は電車に乗る度に「絶叫する静けさ」が皮膚に突き刺さるようになったのである。
****マルクス・ガブリエル:
この哲学者(別名:哲学界のロック・スター)の新しいスタイルがnhkbsの番組制作チームのお気に入りだったのか、彼はいくつかの(おそらく哲学者としては当時最多の)nhk番組に出演している。(ここから先はまったくの個人的な余談ですが)ところで、時々それも一瞬ではあるが、番組中にこの哲学者のカメラフレーム中に出入りする日本側付き人みたいな若者の姿が度々映ることがあった。編集ではそれをノイズとして極力カットしたかったのだろうが、完全に削ってしまうことは叶わなかったらしい。その風貌はいかにも、中高一貫校を歩まされてきたような人生の疑念を抱かせ、しかも、その類によくある眼鏡をかけた秀才風な人物が少し気にはなった覚えがある。この秀才は、いくつかのマルクスの番組で見かけるうちに、いつの間にかフェイドアウトしてしまったため、すっかり忘れていたのだが、ある日突然、思いもかけない事に、その秀才はtv画面にアップで、しかも番組の主役として登場することになる。その名は哲学者 斎藤公平*****。Saito Kohei is back! の瞬間だった。
*****斎藤公平:
最近になって、どこかの番組か対談か何かで、かつてのマルクス・ガブリエルの番組にチラッと顔が写ったことを問われると斎藤は「実は、そうなんですよ」と、バツが悪そうにサポーターとして参加した事実を認めていた。なぜ、気まずかったのか?
(ここから先は私だけのまったくの憶測ですが)斎藤は、マルクスの最新刊『倫理資本主義の時代』(監修:斎藤公平)では巻末解説まで担当する予定だった。これまで散々ダーティー資本主義を批判して止まなかったマルクスが、最近は《資本主義に「倫理」を振りかけると未来は明るい》とばかりに、これからの自分の役割は企業経営者の頭に「倫理」を振りかけて廻ることだという、かつてと180°転換した変節ぶりを堂々と主張する本の内容に、斎藤は我慢できなかったのだろうか。従って(彼のこの本の巻末解説の草稿だけは読んだ記憶があるが)その解説内容は、本の主役=倫理資本の概念をほぼ批判的に紹介するものになったため、これを読んだ著者=マルクスはその掲載を拒否したらしいのだ。本当だろうか。確かに、多くの企業が総出で今盛んに推し進めようとしているSDGsも、斎藤にしてみれば常日頃から言っているように「資本主義の最後の逃げ場」に過ぎず、その延命の度合いが少しばかり先になるだけで、環境汚染も気候危機も世界の貧富の格差拡大も止まらないという訳だ。こんな時に七味唐辛子みたいに「倫理」をパッパッと振りかけている場合ではないという斎藤の確固とした姿勢は、彼にとっての一人の偉大な先輩=哲学界のロック・スターとの関係を失うことになった。そして、変節したものは、もはや「失う」に値しないのかも知れないのだが、上述の「バツが悪そう」な様子は、斎藤がこのことをまだ、完全に消化しきれていないことを示唆しているのではないだろうか。
などど、注釈ばかりが延々と続き、なかなか本文には戻れそうにもないため、中途ですが、ここで終わります。(この稿未完)